1. リテールメディアと、コマースメディアの違い
まず、言葉の定義を整理しましょう。
- リテールメディア(Retail Media): WalmartやAmazon、セブンイレブンなど、「小売業者」が自社の顧客データや店舗メディアを活用して広告配信を行うこと。
- コマースメディア(Commerce Media): リテールメディアを含む、より広義な概念。小売に限らず、「商取引(コマース)データを持つ非小売企業」がメディア化すること。
これまでは、「モノを売っている場所=広告を出せる場所」という認識でした。 しかし、コマースメディアの考え方はこうです。
「財布を開く瞬間(決済・予約・移動)に関わるすべての企業は、最強のメディアになれる」
なぜなら、そこには「何を買ったか」「どこへ行くか」「いくら使ったか」という、嘘偽りのない「確定した事実データ(1st Party Data)」があるからです。
2. なぜ今、世界中で「非・小売」が立ち上がっているのか?
この動きを加速させているのは、主に2つの要因です。
① 「Cookie規制」による精度の低下
これまでWeb広告の主役だった「3rd Party Cookie」が廃止に向かっています。
これにより、「この人はたぶん旅行好き」といった推測によるターゲティングが難しくなりました。 一方で、航空会社や銀行が持つデータは「推測」ではありません。「先月ハワイ行きのチケットを買った」「昨日カフェで1000円使った」という「事実」です。この確定データの価値が、かつてないほど高騰しているのです。
② 「本業の利益率」の限界
航空業界や金融業界は、インフラコストが重く、利益率を高めるのが難しいビジネスです。
しかし、広告ビジネスは違います。データという資産を活用するだけなので、利益率は極めて高い(70〜90%とも言われる)。 「空飛ぶ広告会社」や「金融機能付き広告会社」になることで、収益構造を劇的に改善できるチャンスなのです。
3. 海外の最前線:銀行も、タクシーも、空も
では、具体的にどのような企業が参入しているのでしょうか。海外の事例は、日本の数年後の未来を映す鏡です。
ケース1:「Chase Bank(チェース銀行)」
アメリカ最大手の銀行JPモルガン・チェースは、「Chase Media Solutions」を立ち上げました。 彼らは600万人の顧客のクレジットカード決済データを持っています。 「スターバックスでよく決済している人」に、競合コーヒーチェーンの割引オファーを出す。「ペットショップで買い物をした人」に、ペット保険の広告を出す。 銀行口座のアプリを開いた瞬間に、自分の支出履歴に基づいた「本当に使えるオファー」が届く。これはGoogleにも真似できない芸当です。
ケース2:「United Airlines(ユナイテッド航空)」
ユナイテッド航空は、「Kinective Media」という広告ネットワークを構築しました。 彼らは、乗客が「いつ、どこへ、誰と、どんなクラスで」旅行するかを知っています。 例えば、ハワイ行きのチケットを予約した乗客に対し、フライト前のアプリ画面や、機内の座席モニターで、現地のホテルやアクティビティ、レンタカーの広告を出すことができます。 「旅行モード」に入っている顧客へのアプローチは、通常のWeb広告とは比較にならないコンバージョン率を叩き出します。
ケース3:「Uber(ウーバー)」
Uberの広告部門はすでに年間数千億円規模の売上があります。 「これからバーに向かう人」にビールの広告を出す。「空港に向かう人」に免税店の広告を出す。 **「目的地(意図)」**がわかっているUberだからこそ、文脈に沿った違和感のない広告配信が可能なのです。
4. 日本の現在地と、これから起きること
ひるがえって、日本はどうでしょうか。 現在は、ファミリーマートのデジタルサイネージや、セブンイレブンのアプリ広告など、「リテールメディア(小売)」の立ち上げ期にあります。
しかし、海外の流れを見れば、次は間違いなく「非・小売」が拡大していくでしょう。
候補①:金融・決済(楽天カード、PayPay、メガバンク)
日本はポイント経済圏が発達しています。PayPayや楽天カードは、すでに膨大な決済データを持っています。これらが本格的な「広告プラットフォーム」として開放された時、日本の広告市場は激変するでしょう。
候補②:鉄道・移動(JR、私鉄、タクシーアプリ)
日本の鉄道網は世界有数です。SuicaやPASMOの移動データと、駅ナカのサイネージ、そしてスマートフォンアプリが連動すれば、「通勤・通学の文脈」を捉えた強力なコマースメディアが誕生します。すでにタクシーアプリ「GO」などは、移動中の富裕層向けメディアとして成功しています。
候補③:通信キャリア(ドコモ、KDDI、ソフトバンク)
位置情報と契約者情報、そして決済手段をすべて握っている通信キャリアも、コマースメディアの有力なプレイヤーです。
5. 「嫌われない広告」になれるか? 成功の鍵
コマースメディアには、懸念点もあります。 それは、「ユーザー体験の悪化」です。
銀行アプリを開いて、関係のない広告バナーが大量に出てきたらどうでしょう? 飛行機の座席モニターで、延々と興味のない動画を見せられたら? それは単なる「ノイズ」であり、ブランド毀損(きそん)につながります。
コマースメディアが成功するための条件は、「広告(Ad)」を「提案(Offer)」に昇華させること。
「広告を見せられた」ではなく、「ちょうど欲しかった情報のクーポンが届いた」「旅先で役立つ情報を教えてくれた」とユーザーが感じるレベルまで、精度を高められるか。 ここで重要になるのが、前述した「1st Party Data」の分析力と、AIによるパーソナライゼーションです。
データを持つすべての企業が広告を打てる時代
「うちは小売じゃないから関係ない」 そう思っている企業こそ、実は足元に「データの油田」が眠っているかもしれません。
顧客があなたの商品やサービスを利用する時、そこには必ず「文脈」と「決済」が存在します。
- 美容室の予約データ
- ゴルフ場の利用履歴
- 学習塾の通学データ
これらはすべて、メディア化するポテンシャルを秘めています。
リテールメディアから、コマースメディアへ。
広告主にとっては「推測で撃つ」時代から、「事実で撃つ」時代へ。
日本でもこれから数年で、銀行が、鉄道が、ホテルが、次々と「メディア宣言」をする日が来るでしょう。 その時、マーケティングの勢力図は、今とは全く違う形になっているはずです。


